「もはや日本にては、本当の『史実』や『史伝』などと言うのは、後年に作られた当時の権威に迎合したものの他は何も残されてはいないのである。次々の時代に時の権力者におもねったものが、筆写されて更に書き変えられたものだけが、今度は活字本として出されている。」(本書より)。 「八切裏がえ史」や「八切意外史」、「野史辞典」でお上や体制側の創作した歴史とは正反対に、庶民の側の歴史を明かし、正史を覆した著者。グローバル化や統合、一極集中に抵抗・反抗する著者。著者は「八」の市章を持つ名古屋市の生まれで、著者自身が「八」であり「サンカ」の血を引いているものと私は思います。 著者はサンカ小説を開拓した三角寛氏について、朝日新聞のサツ廻りの新聞記者で、研究の糸口から解明一切が警察情報であったので弾圧する側に在って、他にも官制団体に関係する等してお上の肩書きを持って威張って調査した体制側的研究であるとし、研究対象も神奈川県から関東地方だけであるとしており、著者は自身がその立場とは異なり仲間の一員の様な立場で、研究対象も「八」の本場である愛知県から三重県の東海地方であると言う。 平氏はスメルと呼ばれたシュメールのスメラ山脈の並ぶアブダビ海(ペルシャ湾)沿岸のペルシアの首都スサより、シオン(エルサレム)を奉じ、日本へベーリング海流に乗って来た騎馬民族と、西南アジア経由で黒潮に乗って阿波の鳴門にやって来た「天」の付く古代海人族。漂着した八幡国群の平氏。 藤原氏祖先の唐を滅ぼした契丹。源は元、平はペルシア、藤原は唐、橘は契丹。663年の白村江の敗戦で郭悰務将軍こと日本名・藤原鎌足が百済の進駐軍を率いて来た。 庶民の純血日本人が進駐軍・弁髪人の混血児を産まされ、縄文日本原住民が従順な奴隷とされる前に、山海族の純日本人サンカたちは独立を保って山中へ逃げ隠れた。現在の日本人に在る奴隷根性の由来。 サンカは絶対反権力反体制で、純日本人どうしの婚姻による純血種を保つ。サンカの反骨精神。束縛されず、自然の中で自由に、山の幸や川の幸に恵まれながら生活をしたサンカ。 古代バビロニア語とサンカ言葉の類似。 桃(唐)から生まれた桃太郎が、サル(新羅系)、イヌ(高麗系)、キジ(百済系)を連れて隠忍と呼ばれた原住民討伐。 平将門や豊臣秀吉、徳川家康(元は世良田二郎三郎)はサンカで、同和地区の出。純血の強み。 「八」の出で古代海人族の血を引く八田信長(織田信長)と、同じく「八」の出の秀吉。八田氏(織田氏)の勝幡城。 忍びのアヤタチ(乱破)・ミスカシ(透破)・ツキサシ(突破)。 サンカの持つ双刃の短刀・ウメガイは秀吉の刀狩にも供出されず。掟のヤエガキ(八重書)とハタムラ。ハタは八幡で平氏(八つの赤系)と源氏(四つの白系)。「八」だけの純日本人の血を重んずるハタムラ。サンカの秘密厳守。一夫一婦の絶対。 居つかず天幕を張るセブリ生活を続けて戸籍を持たない自由人から、戸籍を作って束縛される様にシロバケ(素人化け)となってウメガイを戻す掟。 箕つくり、笛つくり、笊つくり、簓つくり(竹細工)、茶筅つくり、茶杓つくり、釜(鍋)敷つくり、気込め(杓入れ)つくり、矢こぎ、ろうつくり、練子踏み(鋳掛屋)、簀子(すのこ)つくり、旅芸人(遊芸者:河原芝居、門付、猿回し、俵ころばし)。 ヤモリ(山守)、イスケ(池番)、カモリ(川番人)、ノモリ(田畑番人)、ウキス(繋留船の番人)のイツモリ(五守)。 製塩は塩尻・天尻と呼ばれ、西南渡来の古代海人族の限定職。 律令国家以降、原住民は賤に落とされ、唐を滅ぼした契丹人も賤に落とされる。 騎馬族系の蘇我氏、百済系の中大兄皇子。 百済人の坂上田村麻呂が原日本人を東北にて追い込み、「根」である原日本人に蓋をしてしまおうと「根蓋」をする様に土を踏み固める「ねぶた祭り」。 坂東八ヶ国や紀ノ川流域の菅原道真をはじめとする契丹人と原住民。 ウメガイで十字に切って邪気を払い、死ぬことが天の神の許へ行く事であるので栄光であって悲しむ事では無いとする天神信仰。 サンカ生活体験記 関連情報
今を去ること23年前の1987年4月28日、72歳で没した八切止夫は歴史小説家、もしくは「八切史観」とも呼ばれる独自の解釈の歴史認識を作り出した人。この本は、彼の主著とはいえないかもしれませんが、充分に歴史的に価値のある一冊として今でも読み継がれているそうです。サンカとは、一説には縄文人の末裔だともささやかれていますが、生活基盤を主に山間部に持ち、川魚を捕ったり竹細工で生計を営んで、地元の戸籍のある人たちとは生活習慣や信仰・生き方までまるで違う異民族のような体制外の人たちで、「山窩」という呼び方や文字をあてがったのは、明治維新のあとの国家権力=警察であって、元々は「散家」や「山稼」や「山家」などと表記したり、それからなんといっても各地でその呼び方が、「箕作」「箕直し」「おげ」「てんばもん」「やまもん」「かわらこじき」「のあい」「ぽん」などと異なっていたといいます。要するに、何百年ものあいだ定住せず、どこの組織にも属さず世間からは得体の知れない者として生きてきた人たちを、統治する明治政府にとって目障りだということで、それと富国強兵策による徴兵のためにも、住民登録させようとやっきになって政治的に乗り出してきたという訳です。そもそも、民俗学の首領・柳田國男やサンカ研究の第一人者と目される三角寛でさえ、最初にサンカのことを知ったのは警察からというのですから、学問の研究が民衆の中に入り込んだフィードワークをいかにおろそかにしていたか解るというものです。彼らとの出会いは、五木寛之の『風の王国』(1985年)を読んだときにがぜん興味を持った漂泊民=サンカについてどんどん深みにはまっていった高2の頃なのか、古い雑誌を集めていたときに手に入れた『マージュナル』誌の第一号(1988年)の「サンカ[三角寛]特集」でサンカのオルガナイザーたる三角寛に遭遇したときからなのか、それとも、もっと純粋に民俗学的な地平で、柳田國男の『イタカとサンカ』(1911年)や谷川健一の『サンカとマタギ』(1989年)を読んだからなのか、それがいつどこで誰だったかということは、もうほとんどはっきりしません。あっ、それとも、『孤島の野犬』や『マヤの一生』の椋鳩十の童話が好きだったからその延長で『山窩物語』(椋鳩十の本2・3)も読んだかも知れません。なんと児童文学の中でサンカを描いた人がいたのですから驚きです。記述日 : 2010年04月28日 16:06:59 サンカの歴史 関連情報