たかもちげん 商品

たかもちげん 代打屋トーゴー [DVD]

10数年前に週刊モーニングで代打屋トーゴーを欠かさず読んでいた事もあり、たまたま検索していたら実写版があるという事でこのDVDを購入しました。あえて言えば、実写版の吉本大介は無能な職員でありながら、ダンディーな感じになっていてバツイチという設定になっています。コミック版の吉本大介よりは、代打屋の時でもはるかに実写版の方がかっこよく描かれています。主役の古尾谷雅人氏は松田優作氏に傾倒していたこともあり、それに類似するような演技を見せていてこれがいい味を出しています。平泉成氏や岡田奈々嬢の脇役も良いキャストと言えるでしょう。作者のたかもちげん、主役の古尾谷雅人の両氏も既に鬼籍に入られています。この点が残念・無念と言うべきでしょうか。 代打屋トーゴー [DVD] 関連情報

たかもちげん 祝福王 1 (モーニングKC)

 惜しまれつつ世を去った漫画家、たかもちげん。氏の代表作と言えば、ほとんどの方は「代打屋トーゴー」「警察署長」を挙げるだろうが、私は本作「祝福王」こそが氏の代表作であると言いたい。 氏は語る。「『完全な答え』。それは宗教からしか出ない」、と。私自身は無宗教ではあるが、宗教を「形骸化したもの」ではなく、「人間の中に血液として流れるような、生々しい宗教」(氏の言葉より引用)として描き出さんとした結果としての本作品を、高く評価したい。 宗教を扱った漫画、と聞くと、それだけで「難しそう」とか「胡散臭い」とか「漫画家に、そんなものがきちんと描き切れるはずがない」などの先入観が生じるのは正直否めない。 だが、氏の言うところの「生々しい宗教」を描き出す事に、本作は見事に成功している。 作中、「餓鬼」や「自在神」などを安易に描いてしまったという印象は確かにあるが、だからといって、本作の面白さは衰えない。 「生々しい宗教」を真正面から描いて、それでいてなお面白い、これこそ漫画家の仕事として真骨頂ではないかと思う。 だからこそ、私は「漫画家」たかもちげんの、これが代表作であると言いたいのである。 祝福王 1 (モーニングKC) 関連情報

たかもちげん 祝福王 1<祝福王> (コミックフラッパー)

 たかもちげん氏は、ヒューマニティに訴える作品を多数描いたことで知られるが、「祝福王」は、その原点と核心というべき作品である。 かつて、手塚治虫も「ブッダ」で宗教というテーマに挑んだことがあるが、「ブッダ」は「ブッダ」という人間を描いた作品であって、宗教を描いた作品ではない。 「祝福王」は、いまだかつて誰もなしえなかった、宗教を内側から描いた作品である。 祝福王 1<祝福王> (コミックフラッパー) 関連情報

たかもちげん 祝福王 4<祝福王> (コミックフラッパー)

 宮崎哲弥×呉智英の対談『知的唯仏論』の中で呉が「宗教マンガの極北」と称賛していたんで、古書で入手して読んだ。ソコソコの値だったから第1巻だけ試しに購入して読み始めたら止まらなくなり、結局全巻揃えてしまった。この文庫シリーズは4巻とも呉智英が解説を担当しているが、そこでも言われている通り、確かに異様な迫力を備えたマンガだと思う。 第1巻では主人公の幼・少年時代から、占い稼業を経て宗教団体設立に向かう過程を、緻密にとまでは言わないまでも、それなりのエピソードや、脇の登場人物たちとの絡みも積み重ねて描かれる。しかし私の感触では早くもこの巻の終わり、どこかの有力教団のパロディとも疑われる西方宗との対峙が描かれる辺りから、おそらく最初に想定されていただろう物語の枠が歪み始める。それ以降は諸宗教、果ては神々との対峙・対決が繰り返され、主人公は至上の神の位置にまで昇る。呉の指摘通り、連載過程で物語が勝手に増殖を始めた印象が濃厚だ。 しかし私としては、「宗教マンガの極北」とか「宗教を内側から描いた」とかいう呉の評価は疑問だ。主人公が自らの真の姿に覚醒していく物語としては、私はまず永井豪の『デビルマン』を思い出したし、マンガではないけど栗本薫が昔書いていた『魔界水滸伝』なんかとも通じ合う。また主人公による一種の折伏行脚のプロセスは、『幽遊白書』や『ドラゴンボール』のような、あるいは『ドラクエ』でもいい、次第にグレードアップしていく敵との戦いを通じた成長物語とそんなに違わない。 この作品が1990年前後の発表であることには、意味があると思う。これも呉が触れているが、オウム事件前夜とでも呼びうる時期、この国には宗教的、あるいはむしろオカルト的な志向性が一部で濃厚に漂っていたはずで、印象で言うのだがオウムが教義パンフで流布した物語とも、あるいは現在まで勢力を保っているらしい某新興教団のほとんど冗談としか思えない無数の転生譚とも、この作品は似通っている。ま、逆に言えばそうした新興宗教の教義が、上に挙げたようなマンガやSF小説の模倣だとも考えられるし、もう一歩踏み込んで、そもそも物語とはそういうもので、イニシエーションを表象することによって人をイニシエーションへと誘惑する物語の力を活用しない宗教などないのだ、とも言いたくなる。 そう考えてくると、私の疑問は呉智英に向かう。 私はかつて藤子不二雄の『劇画毛沢東伝』へのここでのレビューで、その作品に対する呉の評価に疑義を呈した。あるいは最近読んだ呉の吉本隆明論(これにもレビューを投稿した)を改めて思い出す。他にもかなり呉の本は読んだが、私が常に感じてきた違和感が、物語に対するこの人のある種の無防備さに由来するのではないかという気がしている。物語をはぐらかし、物語を逃れ、物語を解毒することがここ数十年の思想や文学の主要なテーマの一つだったはずだが、呉がそれについてまともに論じたのを読んだ記憶がない。呉が分かっていて無視したのか、それとも理解していないのか? で、私は後者の印象に傾いている。そもそもこのマンガのどこに、「宗教の内側」があるのか? よしんば「内側」だとしても、それは「宗教の外ヅラとしての捏造された内側」だろうと思う。 祝福王 4<祝福王> (コミックフラッパー) 関連情報




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