はじめに書誌的なことを述べておきましょう。単行本から旧作の「毬」と「タミエの花」と「虹」とを落として、かわりに「感受体のおどり」を収録したのがこの文庫版となります。「abさんご」はP6からP65、「感受体のおどり」はP70からP504までで、しかも冒頭には見開き2ページを使って50人近くにおよぶ人名表が附されており、さしづめこちらは「大長編」と呼ぶべきでしょうか。 「abさんご」のショッキングなまでの読みづらさについては、ぼくもまた、3年まえ(すなわち芥川賞発表直後)本屋の店頭で身をもって体験しました。分かる分からない以前に、「これは散文詩だろう。小説の賞を授与されるものではないだろう」と感じてすぐさま本を台に戻したのを覚えています。ただ、そのご単行本を入手して、時間と心に余裕のある折に少しずつ読み進めると、やがて頭のなかで主人公とおぼしき女性の声が聴こえて、いくたりかの人物が立ち上がり、どこか影絵のような儚さを漂わせながらも、十分に切実というべき人事のもつれが繰り広げられていきました。なるほどこれはたしかに小説であると思い直したものです。 「abさんご」にかんしては、単行本のほうのamazonレビューに、大貫拓朗という読み巧者の方による注釈があります。もし躓かれた方は、こちらをいちどご覧になってはいかがでしょう。文庫版の解説で江南亜美子氏がいう「(主人公の)幸福でも不幸でもあった幼児期から現在までの記憶をめぐる、オーセンティックでクラシックな物語」が鮮やかに浮かび上がってきます。 江南氏は、「abさんご」で足慣らしをしたうえで、「感受体のおどり」という高い山に登られんことを、という意味のことも書いておられます。ぼくはまだ、全編をざっと通読しただけなので、ここで評することはできません。きちんと論を立てるには、さらに読み返してメモを取り、より詳しい相関図や時間の推移についてノートをつくらなければならないでしょう。ただ、さらさらとひろがる砂地(ひらがな)のうえに点々と艶やかな黒石(漢字)がちらばっているような字面を追ってページを繰っていくだけで、絢爛たる情景と錯綜する人間関係とが次から次へと脳裡をよぎり、ちょっとほかでは覚えのないような読書体験をした、ということだけは記しておきたいと思います。 日本語、いや、やまとことばの底しれなさを堪能できる一冊です。 abさんご・感受体のおどり (文春文庫) 関連情報
キャラアニドラマCDシリーズ AIKa ZERO vol.1
本編の「一方、その頃…」的な話で、本編では出番の少なかったエリとカレン先輩がメインで、藍華もそこそこ出番はありますが、エリと藍華の掛け合いも復活です。また、カレン先輩がかつて無いほどに暴走します。ホワイトナイツは殆ど出番がありませんが、本編では台詞の少なかったE.T.A.I.がよく喋りますし、美由役の後藤邑子さんが珍しくツッコミ役に転じるのも面白かったです。ただ、ハーゲン兄妹は登場しません。 キャラアニドラマCDシリーズ AIKa ZERO vol.1 関連情報
幼いころひとりで童話を読んだ記憶。一語一語言葉の意味を確認しながら読んでいた幼児に戻ったような妙な既視感を覚えた。すらすら読み進むというわけには、とてもいかない。でも作者の意図はそこにあるんじゃないかな、とふと思った。「すらすら読み進んでほしくない」と。たとえば「盆提灯」を「しるべにつるすしきたりのあかりいれ」と書いている。「盆提灯」は読み手の中ににすでにある固定化したイメージが出来上がっているが、その固定化してしまったイメージをいったん白紙のまっさらな状態に戻し、言葉の意味を新しく再生させる意図があるのかなとも思った。「ちょうどたましいぐらいに半透明に、たましいぐらいの涼しさをゆれたゆたわせた」盆提灯を表現した文章だが、美しいなと思う。ページを繰る手が止まらなくて一気に読めてしまう小説は最高だけど、ゆっくり読みながらじわじわと自分の中でイメージや意味が醸成されていくような小説、こんな小説があってもいいと思う。 abさんご 関連情報